浪漫派文庫の覚え書き

まだ見ぬ本を・・・

ベンジャミン・クリッツァー『21世紀の道徳』を読んでの雑感

 

 私は現在の状況にひきつけてこの本を読んだ。現在との状況というのは、私大文系2年の焦りにおいてという意味である。私にとって最も関心の高い箇所は第4部であった。常々思っていたことを良い意味で明瞭化あるいは相対化できたと思っている。とはいえ、現在目の前に遠くない将来突き当たるであろう不安は解消されるものではないが。(それは当たり前であって、マス向けの媒体で発せられるメッセージは必ず個々人の状況とはずれるものであるのだから。それは良い意味でも悪い意味でもそうである。悪い意味でもというのは、媒体の性質上その発言が誰にでも当てはまってしまい、自己否定につながりやすいということである。)

 

 この第4部と同時に浮上して結びつくのが、第2章の文系学部の意義についてだ。私の今の心境としては、文系学部を擁護したい。しかし、筆者が述べているように社会に対して彼等がその意義を分かってもらえなくても発信することは必要であろう。(分かってもらえないというのは、ある分野においては宿痾のようなものではないか?それが「真」の自己を想定しているならば。)

 

 私に今求められている(と思っている)のは、この文系学部の立場と「社会一般」の意向の一応の調停を心中で行うことだろう。もしかすると、どこかで折れなくてはいけないのかもしれない。ニーチェなら進んでJa!と言うのだろうか?その活力に魅力を見出さないというわけではないが、私はNeinの立場が染みついてしまっているのでなかなか受け入れがたい。(その点、この本はNeinという言葉を柔らかくし、Jaへの方向転換を促している書物と言えるかもしれない。そちらの方が良い結果になる可能性が高いのではないかという趣旨のことを筆者は述べていたが、私も何となくそのような気がしている。しかし、またいつ過激派に戻るかは分からない。ちなみにニーチェのjaとneinはその文脈によって捉え方に変化がある。ニーバーの祈りを踏まえれば彼の主張の意図は、かなり明瞭なのではないかと思う。言われてみれば当たり前のことかもしれない。また、ティム・オブライエンの『レイニー河で』という小説もこのテーマと関連しており、一読することを勧める。)

 

 この調停を思って時々居たたまれなくなるのは、まず「社会一般」で(継続的に)生きて行けるのかと疑念が湧くためである。その疑念には大した根拠はない。上手くやっていけると思うことと同程度に大した根拠はない。また、その反動で文系学部の立場とは言わば楽園のようなものなのではないかと思ってしまう。しかし、少しの思慮を働かせれば分かるように、彼らには彼らなりの心労があるものだろうとも思う。仮にどれほどその質が異なっていたとしても。

 そうだとすると私は苦労したくないだけなのだろうか。そうかもしれない。少なくとも遮二無二働くというビジョンに希望は持てないと言い張るが故に。とはいえ、そこから目を背けるわけにはいかないというのも分かっているつもりだ。

 

 消極的なことばかり述べているように見えるかもしれないが、私が積極的意義を見出せるものと言えば、大方書物に関わるものに集約される。私は小説(物語一般)が好きだ。別に小説に限らず、学問に関する本も選り好みはあるが好んで読む。

 今は大西巨人神聖喜劇』を読んでいる。

 これからは何かしら短いながらも覚え書き程度に記すかもしれない。ひとまずは何かしらの短編小説か、アランのプロポについてでも書いてみようかしらん。

 

p.s. 最近は日本古典やルネサンスに興味があります。

  この本は読んで少し時間が経ってしまっているのですが、もしかしたら、もう少し詳しくどこかの章を取り上げるかもしれません。